妙喜庵の歴史


当庵は臨済宗東福寺派の末寺であり、室町時代の明応年間(1492年〜1501年)の創建であります。
開山は東福寺開山聖一国師の法嗣、春嶽士芳禅師であります。
「妙喜庵」の寺号は、宋の大慧禅師の庵号からつけられたもので、連歌の祖である山崎宗鑑の隠棲地であると伝えられております。   

当庵三世功叔士紡の時、世に名高い天下分け目の天王山の合戦がおこったが、戦後も秀吉はしばらくの間山崎を本拠として屋敷を構えて住み、千利休を時として招いていたとのことです。
この功叔和尚は利休の弟子といわれており、秀吉が山崎にて茶会を催した折には利休の手伝いをしていたようです。


山崎の地は古(いにしえ)より油の販売でにぎわったところでありましたが、江戸時代になる頃には次第にさびれてきて明治時代に入った頃には、東福寺派の寺院も廃寺となる寺が多いなか、当庵は昔の面影を残しております。

【山崎宗鑑のこと】
俳諧連歌の祖といわれる宗鑑は近江源氏佐々木義清の子孫であり1465年ごろ現在の滋賀県草津市志那町に生まれ、名を弥三郎範重といい、足利九代将軍義尚の祐筆となり大変かわいがられていたといいます。
そして、義尚の死去にあったのを期に人生の無常を悟り髪を切って尼崎に隠居していましたが、一休禅師の指導を受け、その禅風を伝え明応年間に山崎の地に隠棲しておりました。この山崎の住みしより「山崎」を姓とし、題材に大衆的なものを取り入れた人間味あふれる俳諧連歌を完成し、風月を友として連歌にふけり、油を担って京へ行き終日売り歩いて帰庵するのを常としていたようです。そしてそのころ「犬筑波集」を編集したといわれています。


宵毎に都を出づる油売り ふけてのみ見る山崎の月

宗鑑はその後室町幕府の内紛に巻き込まれるのを避け、讃岐の国で「一夜庵」を結び移住しました。
そして89歳の時「宗鑑はいずくへいたと問うならば 用ができたで あの世へといへ」という辞世の句を残して、没したといわれます。


後世この宗鑑の油筒を模して花入れとした「油筒の花入れ」は当庵の名物となり、「明月堂」は宗鑑の遺構であります。